ここは、イスラエルのある病院の一室である。うす暗い室内には、多くの重症患者がベッドを並べて横たわっている。窓がたった一つしかなく、しかもそれは、ぶあついカーテンによっていつも閉ざされている。消毒薬のにおいが、室内の重苦しさをいっそう濃いものにしている。
患者たちは、眠っているのか起きているのか、うつろな目を天じょうに向け、ただ時の過ぎるのをじっと待っている。看護婦たちもあまりやってこない。ましてや、医師の回診などめったにない。見舞いの客は一人も来ない。何の楽しみもない。変化のないことがこんなにつらいとは……。
そんな中で、唯一の楽しみは、病室の閉ざされた窓にいちばん近いヤコブが、体をやっとの思いでねじ曲げながら、カーテンのほんの小さなすき間に顔をつっこんで、外の様子をながめ、それをみんなに話してくれることだった。
今日もヤコブは、苦しそうに身を乗り出して、すき間に顔を近づけ、
「ほら、向こうの方からいつもの花売り娘が、バラをいっぱいかごに入れてやってくるよ。とてもかわいい娘だよ。」
と教える。みんなも顔をほころばせながら、
「バラの花の色は何色だい。きれいだろうね。」
「今日はどんな服を着ているのかね。良くなったら、いっしょに話をしてみたいものだ。」などとやり合う。
「ほら、今日は雨が強いから大変だ。でも、子どもたちが水たまりをピチャピチャやって遊んでいるよ。子どもは元気だなあ。」
「ちっちゃな長ぐつだから、水が中に入っちゃって……。後でお母さんにしかられなきゃいいが。」
「わしにも孫が二人いるが、大きくなっただろうな……。」
ヤコブが外の様子を話してくれる時だけは、暗い病室に、何か期待と夢が入り込んでくるのであった。
私は、数年前から足の骨がとけていく病気にとりつかれ、いくつかの病院をたらい回しにされて、ここに運ばれたのだった。同室の患者たちも、何らかの重い病気にとりつかれた、身よりのない者ばかりである。ここでも、何人かの患者が入ってきては、何人かが出ていく。出ていくといっても退院するのではなく、あの世からのお迎えである。
いつの間にか、私はヤコブに次いで二番目に古い患者になってしまった。ここに運ばれてくる者は、ほとんど治る見込みのない病人なのだろう。そんな重苦しさの中で、ヤコブの話だけがせめてもの希望であった。
しかし、そのヤコブが眠ってしまうと、どんなに外の様子を知りたくても、どうしようもない。動けぬ体をじりじりさせながら、ヤコブの話を待つしかない。いや、ヤコブだけが外の世界を知っているのが、うらやましくもあった。しかし、みんなが行きたがっている窓ぎわのベッドは、いちばん古くからこの病院にいるヤコブの特権だった。
今日は朝からヤコブはきげんがよく、道を通る人々の様子や木々の変化、緑の葉のあざやかさなどを、おもしろおかしく話してくれた。みんなもヤコブの話を聞きながら、それぞれの故郷の様子や家族のことなどを思い浮かべていた。
そのうち私は、何となくヤコブがにくらしくなってきた。ねたきりでみんな苦しんでいるのに、ヤコブだけがなぜ外の様子を知る権利があたえられているのか。みんなだって知りたい。みんなだってあこがれている。ベッドをかえてほしいと思っている者はたくさんあるのだ。しかしヤコブは、がんとしてその場所をゆずろうとはしなかった。
ある時、こんなことがあった。特に重症だったニコルが、
「ねえ、ヤコブさん。どうやらお迎えが来たようだ。今日一日だけでいいから、ベッドをかえてくれないかな。少しでも外のいぶきにふれて、あの世とやらへ旅立ちたいんだが……。」
しかし、ヤコブはニコルの申し出を無視した。翌朝、ニコルは冷たくなっていた。病室はいつになく重く沈んだ。
「かわいそうに、ニコル。」
「ヤコブが代わってあげればよかったのに…。」
とつぶやく声が聞こえた。
私だって外が見たい。窓ぎわのベッドへ行きたい。そうだ、ヤコブが死ねばいい。そうすれば、その次に古い私がそのベッドへ行けるのだ。
その日から、私は心の中で、ヤコブの病気が重くなることをひそかに願った。みんなといっしょにヤコブの話に笑っている時も、心の奥底では、にこりともしない自分がいた。
その年の冬は、例年になく寒かった。病室もしんしんと冷え込んだ。
どうやらヤコブの様子がおかしい。何となくかわいた咳をしている。みんなは、いつものように外の様子を聞きたがった。しかし、今日のヤコブは話したがらなかった。
その晩、ヤコブは苦しい息の下で、やっとの思いで身を乗りだし、しぼり出すような声で外の様子をみんなに伝えた。
「明日は……いい天気だよ。……星がいっぱい出ている……きっと……いい天気になる……。」
そこまで言うと、がっくりと頭を落とし、そのまま一言もなかった。看護婦がやって来た。ヤコブはすでに息が絶えていた。
みんなが悲しんだ。私もみんなといっしょに悲しい顔をしていた。けれども、どこかで笑っている自分がいた。
これで外の様子をひとりじめにできる。みんなになんか知らせてやるものか。おれひとりだけで楽しむんだ。にんまりと笑いがこみ上げてくる。
いよいよ窓ぎわのベッドへ移ることになった。昨晩は、気持ちが高ぶって眠れなかった。私は、看護婦に抱きかかえられて、カーテンのそばに横になった。今になって睡魔がおそってきた。それでも、眠さをがまんして、私はカーテンのすき間をのぞき込んだ。
そこから見える外の景色、これこそ自分が求めているものだった。期待に胸がうちふるえた。
そこから見えたもの。
カーテンの向こうは、なんと冷たいレンガのかべだった。